実は、観る者が観られる者

2012.1.23(1997.11.4の古いきくち寛のエッセイから)

 

 

心を見せられる経験について

 

こんな経験をしたことがあります。

 

 

パリのオランジユリー美術館の

 

モネの睡蓮の絵なのですが、

 

幸運にも一年毎に三回見ることが出来ました。

 

 

同じ場所、同じ絵なわけですが、

 

毎回違った感じ方をしました。

 

 

言い方を変えれば、

 

毎回違った評価をしている心に出会いました。

 

 

地下の2部屋に弓型に曲がった壁一面に

 

シネスコの様に展示されている大作「睡蓮」を前にして

 

「観る者が観られる者」であることを教えられました。

 


一年目は旅行に同行した他の人から

 

「すごく感動したよ」と聴かされて

 

どんなに感動できるだろうとわくわくして出かけました。

 

 

ところが途中市内でショッピングをした時に

 

とても嫌な思いをしてしまい、

 

なおかつ予期せぬ雨になり

 

重い心でオランジユリー美術館に入りました。

 

 

その嫌な思いを引きずっていた心で

 

モネの大作「睡蓮」を前にした私は、

 

何一つ感動できませんでした。

 

 

 

地下の2部屋にまたがった「睡蓮」の大きさは

 

圧倒するモノがありましたが、

 

感動できない自分の心模様が気になって

 

余計に疲れてしまいました。

 

 

二年目は前回の汚名挽回とばかりに

 

晴れ晴れとした心で

 

「睡蓮」の圧倒的な芸術性に触れました。

 

 

細かい粒子の様なものを

 

体全体に浴びているような感覚があり、

 

一時間以上その部屋にいました。

 

 

 

三年目は前回前々回の感じ方の違いを

 

記憶にとどめていました。

 

 

 

入り口で指定された手荷物を預けて入館したのですが、

 

部屋の前でさらに手に持っていた袋を注意されました。

 

 

預けるところで「それはいいですよ」と

 

言われていたのにもう一度戻り混み合った受付に

 

預けなくてはなりませんでした。

 

 

そんなこんなで、日本晴れではない心で見ました。

 

 

 

去年の感動はかすかになり、

 

同じ感覚はやってきませんでした。

 

 

それでも一回目の様なことはなく、

 

「睡蓮」を前にしてソファーにすわっていました。

 

 

自分の心を観ているんだなとつくずく教えられました。

 

 

モネの睡蓮

 

 

相手が同じ絵だから変化はしていないわけです。

 

 

見ている自分の心の反映を観ているだけなのです。

 

 

まさしく、

 

 

観る者が観られる者であると体験させられたわけです。

 

 

悟った者と凡夫とでは

 

同じ世界でも観ているものが違っているんですね。

 

 

今の世界を創り続けているのは

 

人の心なんです。