9/13深夜の帰宅

2011.09.13

 

無事に深夜0:30(14日)に全行程を終えて

戻りました。

ふ〜〜〜お疲れ様でした。

深夜にもかかわらず家族のお出迎えに

ほっと一息ついて温かい玄米ご飯(いつもの)をいただきました。

 

子猫の「なでしこ」もきょとんとしてお出迎え。

「ふー」は外から帰還してお出迎え。

 

8/25に出発して9/14のam0:30帰宅までの全行程3250km

 

東松島市・多賀城市・南三陸町・石巻市・七ヶ浜町

気仙沼市・平泉市・大船渡市・釜石市・大槌町

下閉伊郡山田町・盛岡市・陸前高田市・気仙沼市

青森市・札幌市・小樽市

 

長かった20日間の歌の焚き火キャラバンは

どれだけのことが出来たのかは判りませんが

被災地で出会った人との思い出は確かです。

 

国会が与野党の足の引っ張り合いで予算が付かないなど

地位や肩書きのある人たちの見苦しさは滑稽です。

 

名もない多くの人々がボランティアで駆けつけていることが

本当に救いです。

 

アメリカやイギリスのNPOボランティアの若い女性や青年が

今でも大船渡にいます。

既に四ヶ月の滞在です。

自分で20万近い渡航費用を出して

仕事を休んで日本の被災地に来てくれていました。

知り合いの方の倉庫の瓦礫(流れてきた冷凍の魚も含む)を

重機を持たない彼女たちは手で掻きだして

何日もかけて撤去をしてくれていたそうです。

匂いのついた身体を厭わずに働いてくれていたそうです。

宿泊施設が休みの時は外で野宿をしていたそうです。

お風呂も生活習慣の違いから苦労したそうです。

トイレも和式で辛かったと思います。

時には仮設のトイレで匂いが辛かったと思います。

10人程のベジタリアン(菜食主義)もいて

食事にも苦労したようです。

外国の名も知らぬ人々の献身的な働きに

日本人は深く感謝せねばと思います。

 

日本人のボランティアさんも頑張っていたと思います。

 

でも私が見たある都市からの団体さんは

一日の参加で結局は慰労会でお祭り騒ぎをして

満足して帰りました。

 

献身的なボランティア活動は自己満足では無いと

その時ハッキリ思いました。

 

石巻市ではまだ大きな遺体安置所がありました。

 

気仙沼では大きな船が町の中に残っていました。

気仙沼にはまだ避難所が数箇所もありました。

 

下閉伊郡山田町では壊れていた町のスーパーが

いち早く再開して頑張ってました。

従業員の多くは仮設住宅からの出勤です。

 

南三陸町は防災無線の悲劇の建物が

骨組みのまま残っていました。

 

陸前高田では仮設のコンビニが頑張ってました。

 

七ヶ浜町では仮設住宅で

小さな生まれたばかりの赤ちゃんや

小学生の子達に沢山出会いました。

挨拶をすると静かに微笑んで挨拶をしてくれました。

 

多賀城市でも爪あとが残っていました。

多賀城へ呼んでくれた方の御霊がライブの一番前の席で

聞いてくれていました。

 

東松島市では海の水がまだ残ってました。

その中に倒れたままの建物が浮かんでいるようでした。

 

大槌町ではひっそりと仮設住宅が並んでました。

 

大船渡では外国のNPOボランティアさんのことを知りました。

それと水の中から生還したおばあさんが

その時のことを教えてくれました。

「今私はこうして生きてます!」

 

釜石では80才の菊池静子さんが駆け寄って来て

握手を求めてきました。

今日は感動を有難う!って

手を強く握って話しかけてくれました。

80才になっても頑張るって

強い言葉をかけてくれました。

 

各地に点在する仮設住宅は住民の方々の横の関係が

取れていないとのことでした。

 

皆さん本当にすごい経験をして今生きておられます。

半年過ぎて少しは落ち着かれていようですが

こころの中を思うと言葉が見つかりません。

逆に励まされます。

 

来年の四月に多賀城市で大きなコンサートが計画されます。

それに合わせてもう一度各地を訪ねたいと思ってます。

 

きっともう一度元気なお顔を拝見出来るように思います。

 

きっと大丈夫を合言葉にして生きていこうと思います。

 

 

 PS:

そうそう付け加えですが、

ある仮設住宅で唄った時に

ジャッキーチェンが全財産を

義援金に寄付されていることと

ソフトバンクの孫さんが直ぐに100億円を

義援金に寄付されたことなどをお話したら

皆さん知らなくて驚かれていました。

これらの情報は被災者の現場には

届いていないんだと知りました。

 

赤十字の金庫に大切に?保管されている世界からの

義援金はどうなってしまうのでしょうか?